昨夜、文章と共に映像が送られてきた。
スペイン、シウダデラ公園に1978年から佇む一頭の犬。
送られてきた写真には『捨てられた犬』という名の彫刻。
Artur Aldomá Puig作『El perro abandonado』
この子はなぜ捨てられたのだろう。
飼えなくなったから?
可愛くなくなったから?
餌代がかかるから?
用済みになったから?
スパニッシュ・グレイハウンド(ガルゴ)なのか?
使役される動物は、その特性は生かして、品種改良がされた。
あくまで愛玩用ではなく、使役する生き物として。
「狩猟」がスポーツだということは理解している。
「狩猟」に向く犬、向かない犬がいるのも知っている。
スペインは(背景として、この地域はバルセロナ公の地域、カタルーニャ、スペインから独立を考えてる、民族が異なる地域です)王立国家だから、貴族、領主のたしなみとして「狩猟」が存在している。
いまは「スポーツ」として存在するのがメインになるのだろうか。
狩猟シーズンが終わると、一斉に「捨てられる犬」が増える。
スペインも猟犬問わず「捨て犬」がひどい。
これは日本も同じ。
猟犬を扱う繁殖家のサイトをみると、使える、使えない犬などと書いてある。
ガンドッグ専門のレスキューも日本には存在している。その犬種を愛してるから存在している。だけど、いいか悪いか正直判断がつかない。受け皿があると愚かな人間という生き物は好き勝手をする。
私の友人の叔父さんも生きている間は、シーズン終いに脚を折られたり、銃で撃たれたり、木に繋がれた犬を何頭も助けてきた。マテのコマンドを従順に従う犬を平気で置いて来れる神経を疑う。
消えていく命を、一晩中吠えているその声を、震えながら主を待つその姿を、そのままにしておけるのか?
私はうちの子たちの瞳にうつる最後のものが私でありたいと思う。
命を贖うということは「責任」がともなう。
カタルーニャ出身ではないけれどカタルーニャに縁のある詩人がいる。公園からそう遠くないバルセロナの美しいランプラス通り(旧市街)をその詩人は称えた。
最後は銃殺された、その詩人の名はフェデリコ・ガルシア・ロルカ(私の好きな詩人の一人)
「終わってほしくないと願う、世界に一つだけの道」
私はうちの子たちがどんなであっても手を離さない。私にもこの子たちにも「世界に一つだけの道」でありたい。
犬は愛情の深い生きもの。どうかその瞳を曇らすことはしないでほしい。
カタルーニャ出身 パブロ・カザルス『鳥の歌』
カタルーニャという地域はこんな感じ。もともとカタルーニャのキリストの生誕を祝うキャロル。なのにキリストの行く末を暗示してるかのような旋律。この曲を聴きながら『捨てられた犬』の彫刻をみるとより一層虚しさしかない。
それでも世界はうつくしいのだと信じたい。
たまに、私に突っかかってくるかたがいらっしゃるんですが、ロルカもカザルスも子供の頃から大好きです、以前にも載せてます。猟犬の話も以前に載せています。