かくいうあたしも負け犬

Sarahぺっこの頭の毛がまっ茶色になって、風船みたいに膨らんで、何だろうと思ってブラシをかけたら、書くにもおぞましいことになってた・・・という悪夢をみた。

昨日、ある方の文章を読んで、一気に疲れたのが一番の原因だと思うんだけど。

たとえば、

とある宗教があって。その宗教は『輸血が出来ない』

親が己の信念と美学と信仰を持って、親自身が『輸血しない』という選択するのはかまわない。

なぜなら、日本国においては信教の自由があるから保障はされているから。

が、子に対して『輸血をしない』ことを「強要」することは出来ない。

このような力関係が「人間関係」にも存在すると思う。

それを好んで「信仰」するのなら、他人の私がとやかくいうことではない。

一つの物語として傍観すればいいだけだ。

「負け犬の遠吠えにしかみえない文章」を読んで、ビールに逃げるあたしも「負け犬」

この太陽の眩しさが悪いのだ・・・