文責

私がここ数日思ってたこと。全然楽しくないから、長文苦手な方はスルーしてください^^

あたしがまだ、文章を書いて仕事をしていた頃。

必ず「文責×××××」、つまりその文章の責任の所在が書くのは常識だった。

それは「この文章の責任は、私が取ります」という意味になる。

ある番組に出ていた女の子が自死した。

「ツィッター」で責め続けられたらしい。

見なきゃ、読まなきゃいいのに。

でも、それを誰もがやめられない。

ここ数十年の日本は

「寂しい人間」が増えてしまった。

誰が、何を言っているのか

誰が、何を考えているのか

他人からどう見えるのか

他人からどう評価されるのか

そんなことばかりに左右される。

いつも、携帯を離さず

いつも、携帯でやりとり

生きている人間とではなくて

「無責任な架空の人間たち」と

深みにはまっていく。

機械を通して、目の前にいない

「虚構の世界の住人」と

現実世界の境界線が薄れていく。

「文明の利器」で便利にも不便にもなってしまった。

番組自体知らないけど、そんな「のぞき見趣味」の番組・・・

「番組」っていうだけで、すでに「虚構の世界」

全てに言えること。

作り出したのなら最後まで責任を取らなきゃ。

番組の責任は?

それすらも「枠の中の虚構の世界」

本当の声を聴いてください。

本当の叫びを聞いてください。

わからないのかもしれないけれど。

今回は間に合わなかったけれど

彼女の危険を察して何人かは動いていた。

もし、誰かが助けを求めていたのなら

私は手を差し出す勇気を持っていたい。

日本はこんな寂しい国ではないはずだから。

文責 kassis