民あっての王

秋だから思い悩む。

頭の中を掠めたのが小野不由美の『十二国記』の延王と延王の麒である六太の台詞。

「畢竟、王は民を搾取し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝と呼ばれる」延王 P65

これを「王」を「ブリーダー」に置き換えて、「民」を「犬」に置き換えてみる。一般の人の意見は六太に投影。

「畢竟、ブリーダーは犬を搾取し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝(よいブリーダー)と呼ばれる」

この後、延王の麒である仁獣六太は王の元を離れた場所で語る。

「民の主(あるじ)は民自身だけでいいんじゃないか。上に権をおけば、権は民を虐げる。」六太 P126

これをさらに置き換える。

「犬の主は犬自身だけでいいんじゃないか。上に権をおけば、権は犬を虐げる」

犬に信頼されて成立するのがブリーダーだと私は思う。躾は大事だけど権力で虐げてはならないと思う。

ここで二つの道があり、どちらかに進まなくてはならないとしよう。

遺伝だったり、性格だったり、体調だったり、自分の「我」の為にうちの子の「犬生(命)」を天秤にかけられるのか。

そこで最初の延王の台詞が胸に突き刺さる。

「畢竟、王は民を搾取し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝と呼ばれる」延王

「俺の首ならくれてやる。首を落とされる程度のことが何ほどのことだ。民は俺の身体だ」延王 P223

置き換えて読んでみる。

「私の首ならくれてやる。首を落とされる程度のことが何ほどのことだ。犬は私の身体だ」

身体あっての首。この子たちあっての私。

女子中学生、高校生向けのライトノベルから出版されていたけど、そういうレベルじゃない『十二国記』

小野主上さすがでございます。

うちには麒麟たちがたくさん。

そろそろ黒麒も歩き出さないと。

この子たちあってのあたしでございます。