お菓子とパンを持って近所の猫のエサやりさんが「わび」を入れにこられました。
日本は民主主義だから、個人、個人の意見が尊重されるわけです。
ですので、あたしはあたしの勝手で猫を「拾い」ました。
これも「猫のエサやり」と同じ「自己満足」です。
なので「半分医療費を払わせてほしい」と言われても筋違いだと思うので、丁重にお断りさせて頂きました。
家のローンがまだある年金暮らしのお年老りから、鐚一文受け取るつもりはございません。
「人間の勝手で捨てられた猫がかわいそう」と言ってしまうところに問題があるので、「任された猫だけ、責任を持ってエサをやる」とだけ言っておけばよかったわけです。
「正しい答えをだすことだけが人生じゃないですよね?」
猫のエサやりさんは、とある宗教を信仰されております。
藍が死んだときに「死んだら芥(あくた)になる」と、愛犬が亡くなって骨壺を持って放浪してるあたしにほざいた方です。そんなことを言える宗教ならあたしはいらない。
「ぼくがこれからの人生を、きみを幸せにすることにささげるって言ったら、きみはなんて言うかな?」
あたしにとって藍、シュナーズはそういう存在なのです。幸せにするために全てをささげたとしても、この子たちから貰うものはそれ以上なのです。
目の前からその「温かい生き物」が消えてなくなってしまったのですよ?気の済むまでさせてくれてもいいではありませんか?
その「あたしの姿」をみたくなかったのは「彼女」。
「あたしの姿」をみているのが辛いから、ただそれだけ。
同じなのです。
「行き倒れの猫を見てかわいそうで怖くなって、逃げてしまった。全部を×××さんに押し付けてしまった、ほんと申し訳ない」とわびにこられました。
あたしは「行き倒れの猫」を助けようとした小学生にトラウマを残してほしくなかった。この小学生はその数日前にも近所のおばあさんが、前にも後ろにも進めない状態で道路に座り込んでたところを必死に立たせようとしていた女の子でした。
「何か出来ることはありませんか?」
と行動をする行為が素晴らしいのであって、やれる、やれないは別次元の問題です。
あたしはあたしの「正義」で「ずるい大人」になりたくなかった。ただそれだけの「自己満足」です。
「猫のエサやりとなんの違いもありません」ということをお伝えしました。なのでお礼もわびも必要ありませんと。
もうすぐ猫のエサやりさんの飼われてた愛犬の命日です。
お悔みに飼われていた犬種と同じお人形をお花と一緒にお持ちしました。
「死んだら芥(あくた)になる」と言っていた彼女は、いまだにその「小さなお人形」をかざってあるそうです。毎年命日にはお花を持っていっています。
亡くなっても心には生き続けるのです。「芥」になんてなりません。
愛犬が亡くなってからそのことに気が付いたそうです。
今回の事はこれにて「手打ち」でございます。