零の位置

どこを零(常識)にするかってことなんだけど。

そもそも「自分の常識は他人の非常識」ということを念頭に入れておかねばならぬ。

自分が好意でやった行動は、他人にとっては「零(常識)」

あたしには好意でやったに過ぎず「零(常識ではない)」ではない。

人の好意を「零(常識)」と考えるのも致し方ないが、確認は必要。

なぜなら「発達障害」の方々は「人の好意」を「やってくれて当たり前」と受け取るから。

昨日はマーティーの命日。大好きなアップルパイ。

映像は一昨年のだけどな。今年はこさえられんかったから山崎で買うてきたわ。

死んだもののことは考えなくてもいいという人もおるし、常に傍らにおいておきたいという人もおる。

以前、亡くなった者のことを話すのは「非常識」といったばばあがおった。

このばばあ、あたしに自分の娘と孫娘をまんま「丸投げ」してボケやがった(笑)

けどこのばばあにしてみると、あたしがこのばばあの娘と孫娘の面倒を看るのが「零(常識)」であって、面倒を看ないのは「非常識」

よく考えてみよう、お前のほうが「非常識」じゃ。

だけど、また、別の見方をすれば、世間に見捨てられてる人間に手を貸すのが「非常識」だという意見もある。つまり、あたしの行動は「非常識」ということだ。

放っておけばいいという。

まっそれが「零(常識)」なんじゃろ。

このように、何が「零(常識)」かというのは、時代、性別、年代、職種、宗教、国籍etc・・・で全て変わってしまう。

「零(常識)」とはかくも「曖昧」なもの。

「零(常識)」の位置はかくも「曖昧模糊」

他人の「零(常識)」は自分の「非常識」