・・・どこを削っていいかわからなくなってきたわ。「勧進帳」の感想、長文です。
撓・・・能の「菊慈童」で慈童が人間だった時の事を思い出して、撓(シオリ)するシーンがある。能の泣く表現のひとつなんだけど。
今夜、みぃちゃんからのお誘いで、片岡仁左衛門の『弁慶』を観てきたわ。(←それだけ観て帰ってきた・・・頂いたチケットは前から9列目の花道横、ドンピシャ一等席なのに・・・贅沢だわ。犬、おるしな。さようなら1万8千円)
歌舞伎十八番の内「勧進帳」と言えば、市川家の十八番(おはこ)なんでしょうけど、今回はなぜか『弁慶』が孝夫ちゃん。『義経』が孝太郎、『富樫』が幸四郎だった。
孝夫ちゃんは大好きだから、とっても嬉しかったんだけど。
「品が良すぎないか?」
と危惧しておりましたの。
酒を勧められて『弁慶』が酒を呑むシーン。
呑んでいる時に実は泣いている。
呑み切って笑うんだけどさ。酒を入れたうつわが大きくて、まるで能の撓。
もともと能の『安宅』が下地になっているわけだから、いろいろ所作はあるんでしょうけど。
なんて知的な『弁慶』なの!これはこれでありじゃなくて?お衣装のほうもモダンな感じでしたわ。
「義経一行」だって知っていて『富樫』は関所を通す。
その、言葉にならないやりとりの妙と言ったら素晴らしい。
孝夫ちゃんて『富樫』の印象しかなかったし、知的な孝夫ちゃんが『弁慶』?って感じだったけど、年を取って、たぶん、体力的にも、役回り的にも最後だろうけど、新しい境地なんじゃなかろか。
いやぁ、よかったわ。
あんまり、好きじゃない孝太郎だけど、台詞もなくただ座っているんだけど、実は
凄く難しい役回りで。本音を言えば、綺麗どころを持ってこいよ・・・って感じなんだけどさ(笑)
固唾を呑んでやりとりを聴いている。自分のせいでまわりを巻き込んでいるのを知っているから、ただ、固唾を呑んで、じっとしている。
台詞も何もないのだけど、ただ、じっとしてるだけでは芝居にならないわけで。
この辺りは親子だから、なんとも言えない空気が漂っていて、おもしろかったわ。
疑いをかけられた『義経』に対して散々『義経』を殴打する。
『弁慶』の機転で難を逃れた後、『弁慶』が『義経』に詫びを入れるシーン。崩れ落ちていく『弁慶』・・・あぁ、『義経』と『弁慶』っていうのは主従の関係なのね・・・というのがはっきりしている。そんな『弁慶』に優しく手をのばす・・・『弁慶』にそんなことをさせてしまったのは自分の責任だって『義経』は知っているのよね。だから、綺麗どころを持ってこいよ・・・って感じではありますが(笑)
「歌舞伎」ってのは『型』の芸術になってしまったところがあって、そうなってしまうと、新しいものがなかなか入らない。安定しちゃうから。今度は安定させるためにいろんな理由をつき始める。
「歌舞伎の様式美」を取るか「歌舞伎で演劇」を演じるか・・・観客あってのことだから、観客無視では本当はどうにもならない。お金を払うのは観客なのだから。そこを忘れてしまうと「はだかの王様」になってしまう。見てくれる人がいなかったら成立しないということを忘れていってしまう。
一つの世界を壊さないと次の世界には行けない。存続させるにはそういう冒険もしないと立ち行かない。
「様式美」は大事だけれども、そこだけにこだわってしまうと、「歌舞伎」自体が廃れてしまうのだって思った一夜だった。まっ、だから廃れてきたのよね。育てるっていうことはとても重要なことです。それが、たとえ「なんで、あんなのを育てたんだ」と言われたとしても。
もう、そんな度量の広い「役者」がいないってことなんでしょうね。自分だけの「芸」で終わらせるのも一興ですけどね。
歌舞伎役者の家に生まれた「血統」プラス「型という様式美」と一般の人が学んで「演劇としての歌舞伎」が両立すれば、もっと、素敵なお芝居が観られるだろうにと思った一夜だった。
でも、「歌舞伎役者」のお家は「家」にこだわり過ぎちゃって、自分の立ち位置がもうわからなくなってるかも。
役者自身も正しい評価をもらえてないことに気づかないんだろうな。へたくそでも「家」だけで評価されてる。いい加減気が付けよ。
数年ぶりに、観劇した歌舞伎は新鮮でした。また、問題点もよく見えた一夜でした。
綺麗どころの義経で。麗しの玉三郎さま