馬鹿がきらい

馬鹿がきらい。

例えばコップに花が挿してあるとする。

その花は「水」を吸って生きている。

人はその花をみて本来の「長さ」を知っているだろうか。

例えば「水仙」があったとする。

コップに挿すのに25センチくらい切ってきたとしよう。

では、その「水仙」を支えるための根の長さはどれくらい?

根の本数は?

少なくとも地上から花弁までの長さと同じくらい、もしくはそれ以上の根の長さが張っている。

地上からみえないところで支えている。

ぽっと花がついたわけではない。

球根の根というのは、根の先端でしか水を吸うことができない。

「一度」でも根っこの先端が渇いてしまったら、その根っこは水を吸い上げることは不可能だ。

根の本数も無限に増えるわけではなく、球根の底の丸い粒一つから一本の根が生えるのみ。

つまり「生まれ持ってきた本数の根で自分の一生を支える」ことになる。

壊死したり、切れたりしたらもう二度と生えてはこないのだ。

人の一生も同じ。

生まれ持ったものをいかに無駄にしないで生きていくかということになる。

地上で優雅に咲いている花の下には、支えている「根」があるのだ。

それは教育だったり、遺伝だったり、人間関係だったり。

人に何かをしてもらおうと思うほど愚かな行為はない。

花を咲かすのは自分の責任であり、少ない根っこしかないのなら、太く強い根いすればいいだけだ。

私は馬鹿がきらい。

どうして自分だけ「根」がないと嘆く?どうして「私」ばかりと嘆く?

「根」を生やす努力をしたのか?助けを乞うばかりで、下心なく人を助けたことがあったのか?

自分の目的の為に「力」を貸すのは助けではないだろう。

しっかりと岩盤だろうが、土が少なかろうが「根」を生えせばいい。

人脈でも技術でも。

風に揺蕩うだけが花じゃなし。

私は泥臭くでも一生懸命咲いてる花を美しく思う。

蒲公英だって一生懸命に根を張っている。