因果・・・「原因」と「結果」 仏教においては、全ての行為はのちの運命を決定するということ。
友人の弟は小児科医。ちょっと前までは大学病院に勤めてた。最近は小児科医はお金にならないのでなる人がいないのだ。なので、しょうっちゅう、呼び戻される。
私もキル―ピーを去年12月に大学病院に連れて行った。
原因がわからないから、詳しく検査してもらうために。
・・・ということは、「町医者」がお手上げの患者さんが行くのが、基本、「大学病院」
・・・で、・・・友人の弟と「死亡診断書」の話になった。
「納得がいく死」というものはないと思うんだけど、「希望」を持って、または「最後の望み」で「大学病院」なり、「病院」に治療に行ってた場合、予期もせず「終着駅」が「死」だった時、人は「怒り」に飲み込まれる。
・・・藍のことを想い出した。
友人の弟は寡黙な人で、あまり、言葉の多いタイプではない。
常々口にしていた言葉は「年寄りは死んでいいけど、子供は死んではいけない」だった。
「子供」の「死」が身近にある職場なのだ。
私は私が「獣医」にぶつけたかった言葉を、友人の弟に投げかけてみた。
友人の弟は堰を切ったようにしゃべりだした。
「子供の死」の原因は「担当医」にむけられること。
「あーしてほしかった」「こーしてほしかった」「あーしていれば」「こうしていれば」・・・「どうして?」「なぜ?うちの子が?」
出来る事には限度があること。
「疑問に思うなら、他の病院に行けばいいのよね」
「でも、たいてい、そういう時は手遅れなのよね」
小児科医と獣医は似ている。医者に子供や自分のパートナーの状態を「正しく」伝えるのは、親であり、オーナーだからだ。
普段から、子供や自分のパートナーの状態を把握しておかなければ、異常事態がわからない。
・・・やっていたとしても、どうにもならないこともある。
「怒りの矛先」はどうしたって「担当医」に向けられる。
友人の弟に私は言った。
「もう、抱え込まなくていいから、医者、やめちゃいなよ」
「うん、そうしようと思うんだ」
医者は60歳くらいが寿命。ぽっくりと死んじゃう。
・・・友人に昨日は感謝された。友人の弟は鬱になってしまっていたからだ。去年、5月よりはずっとよくなってた。
話を聴いてくれてありがとう、弟の気持ちをわかってくれてありがとう。
・・・違う、私が医者に向ける気持ちを「こういう事だよね?」と裏返しに言っただけなのだ。
藍のことを想い出していた。大好きな藍のこと。なぜ、藍が死んじゃったんだろうってこと。
いろんな事が重なったのも「因果」なのだってことを。
一昨日、3月1日の朝、救急車で運ばれた友人のパパ。
昨日、3月2日の朝、鬼籍に入った。90歳だった。
「・・・お父さんは90歳まで、生きられたからいいよね」
と、友人の弟が、ポツリと言った言葉が、重く、胸に残る。